IBF Foundation理事兼事務局長
大坪 英太 Eita Otsubo
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2010〜12年 社会人ボランティアを経験
2012〜14年 留学
2014年 入職
2019年〜 IBF Foundation理事・事務局長を兼務
2019年のアジア選手権にてIBFFoundationやJBFAの仲間たちと。(写真右から2番目)
社会人ボランティアからスタート
仕事と両立しながら留学準備も
――10年以上、JBFAの仕事を続けてきた大坪さんは、神奈川県出身の37歳。大学卒業後、社会人になってからブラインドサッカーに関わるようになったそうですが、どのような経緯だったのですか。
2007年に社会人になり、大手通信会社の購買部門で調達の仕事を任されていました。学生時代から、社会に出て数年経ったら留学しようと考えていたため、2009年ごろから留学カウンセリングを受けていました。スポーツやサッカーにまつわるビジネスを勉強したいと話していたら、カウンセラーさんが偶然、JBFAの関係者の留学もコーディネートした方で、紹介してくれました。実際に見てみようと調べたら、ちょうどロービジョンフットサルの大会ボランティアを募集していたので参加したのが始まりです。
――もともとサッカーやブラサカ、障がい者スポーツに興味があったのですか。
サッカーとバスケットボールのプレー経験はありましたが、どちらかというと見る方が好きでした。高校3年生の春休み、ロンドンへ語学留学をしたときにプレミアリーグの試合を観戦したのですが、プレーはもちろん、大歓声が響く競技場の雰囲気に魅せられました。
同時に、スポーツが持つ様々な力にも関心を持ち始めていました。社会に出てからも年に一度の長い休みには必ず、趣味の海外旅行をしていました。ある年、ボスニア・ヘルツェゴビナ旅行中に現地の観光業支援に従事する日本人の方と出会って国際協力の仕事を知り、いつかスポーツの力を使って紛争を解決するような活動ができたらおもしろいんじゃないかと、漠然と思っていました。
――その後、どのようにJBFAでのボランティアを続けられたのですか。
2011年1月からは事務局でのボランティアを始めました。現在のように事業ごとの部署もなく人も少なかったので、調達業務やメルマガ作成、大会準備など、何でも手伝いました。基本的には平日の夜と、都合のつく週末に事務局や大会現場へ行くかたちでした。
――並行して留学に向けての準備や勉強もしていたのですか。
はい。2012年2月には合格し、7月から留学することになったので、会社は6月で辞めることに。そんななか、6月の日本選手権の仕事を任されまして。大会委員長として運営の舵取りをしました。
――留学直前に大きな仕事を任されたのですね。
そうですね。振り返ってみると、ターニングポイントだったのかもしれません。大会準備で忙しくしていたある日の朝、用事があって事務局から都庁へ向かって歩いていました。すると、スーツを着た大勢の人たちが、駅から溢れるように歩いてきたんです。通勤ラッシュの人波と、私服を着てスニーカーを履いた自分がすれ違う瞬間、「あ、僕は違う道を歩き始めたんだな」と感じました。その光景はとても象徴的に思えて、今でもはっきりと覚えています。
以前は大会現場を支える仕事もすることが多かった。(写真右から2番目)
英国でサッカービジネスを学び
再びJBFAへ
――2012年7月からは念願だった留学へ。大坪さんが通われたリバプール大学大学院フットボール産業MBA(University of Liverpool FootballIndustry MBA、略称FIMBA)は世界で唯一、フットボール業界に関するMBAを取得できるコースとして知られていますが、具体的にはどのような勉強をされたのですか。
1年半ほどかけて、チーム運営やCSR活動などを含め、サッカーについて多面的に学びました。地元クラブのエバートンが、大学院へ研究テーマを提供するなど協力してくれていたので実践的に学ぶことができました。とくにエバートンはCSR活動、チャリティ活動を昔から積極的に行っているチームで、チャリティ団体も運営しています。修士論文には、その団体の活動の社会的価値を測定するというテーマを選びました。
――イギリスはとくにサッカーが人々の暮らしに染み込んでいそうですね。
そうなんです。エバートンのチャリティ団体では退役軍人のメンタルヘルスケアにサッカーやフットサルを活用していました。そうした本場の事例を通じて、サッカーの魅力を活かすと、人が前向きに生きることへ貢献できるのだと学びました。
――留学を2014年1月に終え、再びJBFAへ復帰。どのような仕事を経験されましたか。
2014年2月から1年間だけのつもりだったのですが、気づいたら今に至ります(笑)。最初はイベント受注の仕事を担当。14年11月にはアジア初開催となった世界選手権が東京(代々木公園)で開催され、体験会の運営や行政との折衝、障がい者スポーツの他団体との連携イベントを企画するなど、いわゆるピッチ外の多くの業務を仕切りました。15年からは法人営業を担当したのですが、苦手分野だったのかうまくいかずスランプに……。経理業務もフォローしましたが、その後は徐々に正職員も増えてきたので、マネジメントの立場も多くなりました。そうしたJBFAの仕事と並行して、2016年からは東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会へ出向しています。
――組織委員会ではどのような仕事をするのですか。
5人制サッカー(=ブラサカのパラリンピックにおける正式競技名)のスポーツマネージャーとして、競技会場に必要な条件や運営に関する準備と、大会時の運営を担当しています。2016年にはリオデジャネイロパラリンピックも視察しました。組織委員会の仕事は現在も継続中です。
2019年7月、アメリカで開催されたIBSAのスポーツカンファレンスでは、東京オリパラの組織委員会5人制サッカースポーツマネージャーとして大会準備状況等のプレゼンをした。
国際的なブラサカの普及を目指す
IBF Foundationの設立に奔走
――ここからは、大坪さんが事務局長を務める一般財団法人インターナショナル・ブラインドフットボール・ファウンデーション(IBF Foundation)について教えてください。「ブラインドサッカーが国際的に広くプレーされるスポーツとなること、および各国の競技団体の組織力向上に貢献することを通じて、世界の視覚障がい者のクオリティ・オブ・ライフを向上させること」を目的に2019年1月に設立されました。なぜこのような組織が必要で、JBFAとの違いはどのような点なのでしょうか。
実は2018年の初めごろから設立に向けて動き始めていました。背景にあったのは、JBFAのリソースを他国の支援に割きづらいことやブラサカの参加国数がなかなか増えないことなど。そして、ブラインドサッカーがパラリンピック正式種目から落選してしまうかもしれないリスクがありました。パラ種目の採用には、参加国の多さや、女子カテゴリの有無といった点も考慮されます。実際にパラ種目になっていない他の障がい者スポーツもたくさんありますが、落選はブラサカの発展にとって非常に痛手。しかし、パラ種目であることを維持する活動まではJBFAでは担いきれない。加えて、以前からJBFA事務局長の松崎さんたちと、ブラサカの発展を通じて「国際的に視覚障がい者を減らす活動をしたい」とも話していたんです。国際的に立ち回ることのできる組織、国際視覚障害者スポーツ連盟(IBSA)をサポートできるような組織が必要なんじゃないかということで設立に至りました。
――「視覚障がい者を減らす」というのは、どういうことなのでしょうか。
少し古い定義ですが、世界保健機関(WHO)が発表した「WHO国際障害分類」で、障がいは「機能障がい(Impairment)」「能力障がい(Disability)」「社会的不利(Handicap)」の3つに定義されています。視覚障がいで言えばまず、見る機能が失われる。そして、見えないからできないことがある。さらに、見えないことによって被る不利益、不平等がある。IBF Foundationでは、ブラサカの世界的な発展を通じてこれらの障がいをなくしていきたいと考えています。
――そのために必要なことはどのようなことですか。
まずは、IBSA主催の国際大会の品質を向上させて安定させること。中継や実況などの観戦環境を整えるなど、スポンサードに耐えうる品質の大会にしていきます。そうすれば、スポンサーもつきやすくなり、資金繰りもうまくいくようになるでしょう。下図のような、いいスパイラルを後押しし、医療分野との連携や社会変革につなげていきたいと思っています。
――具体的な活動は始まっていますか。
最初の活動は、2019年2月にIBSAとともに主催した「IBSA女子トレーニングキャンプ2019 supported by 田中貴金属グループ」でした。同年9月には、タイで開催されたアジア選手権を、参天製薬とJBFAとタッグを組んで全面的にサポートしました。2020年10月には、参天製薬、JBFA、IBF Foundationの3者で10年間の長期契約を締結。「VISI-ONE」というビジョンを掲げ、“見える”と“見えない”の壁を溶かし、ひとつになる世界の実現に向けて様々な活動を展開しています。(VISI-ONE公式ホームページ https://www.visi-one.center/ )
さらに今後は、女子の国際大会がナイジェリアで予定されており、2022年にはフランスで国際大会を開こうという計画も進行中です。
2019年タイで開かれたアジア選手権では、参天製薬の現地社員の方々に向けた体験会なども指揮した。
ボランティア精神だけでは続かない。
ブラサカの可能性を信じ、道なき道を行く
――大坪さんをこれほどまでにブラサカの仕事につなぎとめるものは何でしょうか。
ブラサカという競技が持つ可能性、が大きい気がします。同じことを健常者のサッカーでやろうとしてもできないのかもしれない。アイマスクの存在が象徴的です。僕が以前、紛争解決に興味を抱いたきっかけは旧ユーゴスラビアの国々だったのですが、彼らはほぼ変わらない人種だけれど、“民族が違う”という理由で今でも対立感情が残っている地域もあります。そんな中でも音楽やスポーツで民族融和を図ろうと活動している人たちもいるけれど、ブラサカはもっと分かりやすい。目隠しさえすれば、人種も民族も何も関係なくなるわけですから。言い方はよくないですが、「ブラサカは使える」。様々な違いを超えていけるブラサカのパワーに惹かれています。
――なるほど、ブラサカならどんな違いも超えられる。まさにIBFFoundationが掲げている「“BEYOND” with Blind Football」の可能性ですね。
ブラサカは、いわゆる社会的な側面の力強さが興味深いです。そのうえで競技として観るのもとても面白い。これは留学中に学んだことですが、サッカーは「不確実性でできているスポーツ」と言われています。足を使うのでとんでもないミスが起こることがあるし、弱いチームが強いチームに勝つことだってある。その面白さこそ、サッカーが世界で普及している理由だとも言われています。ブラサカも同じで、目隠しをしているから何が起こるかわからない。ハラハラ、ドキドキ感があって、息を飲む瞬間が多いですよね。他の競技とは異なるダイナミックさがあって、サッカーと同じ本質をブラサカもはらんでいると思います。
――そうした魅力を一人でも多くの人に知っていただきたいですね。しかし、障がい者スポーツに関わっていると「ボランティア精神でやっているんでしょう?」と言われてしまうことも多いのではないでしょうか。大坪さんはどのような心構えで仕事にのぞんでいますか。
確かに、そう思われることもありますね。でも僕らの仕事は、いわゆる“福祉マインド”と言いますか、「助けてあげたい」「手伝ってあげたい」という気持ちだけでは続かないと常々思っています。僕自身、ボランティア精神はゼロではないですが、それだけで仕事をしているわけではありません。
――では、どんなプロ意識を持って仕事をしていますか。
あまり適切な言い方かどうか分かりませんが、マイナースポーツの競技団体としてのプロ意識、信念を持っている、と言えるかもしれません。健常者のサッカーやラグビーなどに比べると、ブラサカはまだまだマイナーで、競技自体の存続の危機とも背中合わせ。だから、まずは競技の発展を第一に考えて様々な活動を展開する必要があるわけです。情報発信や資金調達を積極的に行って強固な地盤を築かなければ、選手たちがプレーする場も、音の鳴るボールすら作れなくなってしまうのですから。泥臭くて力強い、マイナースポーツならではの歩み方があり、僕たちはそれを先頭切ってやっているんだという自負はありますね。
――そうした仕事に長年関わる中で学んだこと、成長したと感じることはどんなことですか。
前職はわりと一人でやる仕事だったので、自分一人で難問を解いているような感覚でした。JBFAでは、辛いこともあるけれど、仲間と一緒に乗り越える達成感があり、人との関わりの中で成長してこられたという手応えがあります。マネジメントの視点を持てるのも多くの仲間がいるからこそだと思っています。
――これからJBFAやIBFFoundationで働いてみたいと思う人に求めること、必要なことはどのようなことだとお考えですか。
まだまだ整備されていない茨の道を進むような状況の中、ルーチンワークではない仕事を楽しめる力が必要かなと思います。サッカーやブラサカの経験があるかどうかは関係ありません。社会人経験や語学力があって、JBFAやIBF Foundationのビジョンに共感し、一緒に力強く歩んでいける方、お待ちしています。