事業推進部
高山 ゆずり Yuzuri Takayama
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2018年 正職員として入職
2021年 事業推進部大会運営グループへ
障がい者を取り巻く壁を感じ
JBFAへ転職
――大会会場で一生懸命に仕事をする姿が印象的な高山ゆずりさんは、愛知県出身の28歳。2018年にJBFAに入職するまではどのような仕事をしていたのですか。
大学卒業後、愛知県内の特別支援学校に講師として2年間勤め、知的障がいの高校生たちと関わりました。国語や数学の授業をしたり、学校生活のサポート、就職を視野に入れた指導などもしました。
――いつごろから障がいのある人と関わる仕事をしようと考えていたのですか。
小さな頃から身近に障がいのある人が何人かいたので特別なことだと思ったことがありませんでした。でも、友だちは彼らを「怖い」と言う。「ぜんぜん怖くないよ」ということが伝わらなくて、子ども心に「こういうところを変えたい」と感じていました。高校生になると特別支援学校で働きたいと思い、教員免許が取れる大学に進学しました。
――ブラインドサッカーを知ったきっかけは。
支援校では生徒たちが部活動でスポーツを楽しんでいましたが、卒業後、趣味程度でスポーツができる環境を探すことが難しいと感じていました。ましてや愛知県は車社会ですから、気軽に移動することも難しくて。障がいの当事者ではなく環境のほうに障壁があるのかもしれないと気づいたんです。まずは自分が何かパラスポーツに関わってみようと調べたらブラサカのクラブチーム「Mix Sense名古屋」があり、体験会に行ったのが始まりでした。
――ブラサカの第一印象はいかがでしたか?
初めて見たときの衝撃と感動は忘れられません。とにかく格好良い。スポーツはプレーするより見るほうが好きでしたが、すぐに加入を決めました。
――クラブチームに参加してJBFAとの接点ができ、求人募集を知ったのですか。
そうです。当時のダイバーシティ事業部(現・事業推進部)が「スポ育」のファシリテーターを募集していました。自分の感じている課題について考えられる仕事かもしれないと思い、応募しました。もし他の職種だったら応募しなかったでしょうから、縁があったのだと思います。
Mix Sense名古屋ではゴール裏から声で指示を出すガイド(コーラー)を担当。上京した現在も試合に出ている。(写真左端)
ファシリテーターになり
見えてきた新たな課題
――学校での仕事を辞めて上京。スポ育ファシリテーターの仕事はいかがでしたか。
スポ育は、視覚障がいの選手と一緒に学校へ赴き、アイマスクをした状態でのレクリエーションを通して、視覚障がいの理解促進やコミュニケーションのあり方、ブラサカの魅力などを学んでもらう90分間のプログラムです。円滑に進行し、選手の話す言葉をしっかり聞いてもらうことが私の役目でした。
前職では1年間というスパンで子どもたちの成長を見守りましたが、スポ育は毎回違う学校で90分一本勝負。限られた時間内でどう伝えるか、先輩たちのプロ意識や集中力はすごいと感じました。
――どんなふうに仕事を覚えましたか。
最初は会場準備や補助をしながら先輩や選手の言動を見て覚え、慣れてきたら部分的に進行を担うようになりました。前職の経験もあって緊張はしませんでしたが、初対面の子どもたちの雰囲気を早く掴み、選手と共有することを心がけました。
――わりと得意な仕事だったようですが、なぜ大会運営担当に変わろうと思ったのですか。
スポ育に携わるうちに、スポ育を体験した子どもたちと、競技としてのブラサカをもっとも体感できる大会が結びついていないのではないかと感じるようになりました。子どもたちが見に行きやすい観戦方法や大会環境を直に考えてみたいと思ったんです。
――異動は上司の方に希望を出して実現したのですか。
はい。当時、スポ育のマネージャーになっていたのですが、現場に行く機会が減り、この先どう歩むべきか目標を見失っていました。極端な話、私はJBFAを辞めても教員免許があるので学校現場に戻ることができます。一方でブラサカを通してやりたいこと、考えたいことがある。諦めるのはまだ早いと思い至りました。自分は悩みを溜め込んでしまう性格ですが、上司は根気よく話を聞いてくれてありがたかったです。
大会を通して
全国のクラブチームに光を
――異動後、どのような大会を経験しましたか。
私が最初に携わったのは2021年5〜6月に開催された「Santen IBSA ブラインドサッカーワールドグランプリ 2021 in 品川」で、感染対策部門を担当しました。次は21年10月末〜22年1月末に開催したアクサ ブレイブカップ(日本選手権)の予選、品川大会で責任者を。同年2月には初めて大会委員長としてKPMGカップ(クラブチーム選手権)の運営を統括しました。
――大会委員長としてどのような仕事をしたのですか。
運営委員会を中心に全体を動かしていく立場で、大会コンセプト策定、集客目標設定、現場の行動規範などを決め、行政との交渉、広報やマーケティング担当者と相談することも多かったです。また、自分の経験から「大会のことをスポ育の場でも伝えたい」という思いがあり、スポ育担当者にも話し合いに加わってもらい、情報を共有しました。
――今回の同大会のコンセプトは、どのようにして決めたのですか。
従来のKPMGカップは、各地域リーグを勝ち上がってきたチームと、海外招聘チームとが対戦するという特色がありました。しかし、コロナ禍で地域リーグの開催や海外チームの招聘は不可能に。パラリンピック効果でブラサカ日本代表や競技自体に注目は集まったものの、日本全国のクラブチームの存在があまり知られていないことは課題でした。そのため今回は新しいチームが注目される機会になることをコンセプトに、チームの選出方法に「設立4年以内」という枠を設定。各地に新しいチームが生まれることで障がい者を取り巻く環境の活性化に、ひいてはJBFAやブラサカ全体の発展にもつながると考えたのです。実際に、金沢の新しいチームが公式戦初ゴール・初勝利を決めることができ、非常に嬉しかったです。
――多くの人を動かす立場になって苦労したことはありますか。
私は上に立つことはあまり得意ではないのかも……と痛感しましたね。私が仕事を抱え込みやすい性格だということを近しい職員の人たちが分かってくれていて「あの仕事はこっちに振り分けて」「これはあなたが判断してね」と声をかけて支えてくれたので本当に助かりました。
――不得意な部分を補い合える仲間がいて、良い職場ですね。そんなJBFAで仕事をする中で、ご自身に何か変化はありますか。
責任ある立場を経験できたことで、物事を捉える視点が増えました。自分にとっては大きな変化だと思います。
子どもたちの雰囲気を瞬時に掴んでスポ育や体験会を実施してきた。(写真中央)
子どもたちが混ざり合う場を
考え続けたい
――JBFAはどのような組織、どのような人たちの集まりだと感じますか。
JBFAに関わる人たちは皆さん熱い思いを持っていて、行動力につながっています。そして、つねに挑戦し続ける組織。大会運営にしても、今までの方法でやればOK、とはならない。毎回、「あれもできるんじゃない?」「これもやってみよう」という向上心が組織全体にあると思います。
――この先、JBFAで成し遂げたいことはありますか。
もともと好きな教育の現場に貢献できる新しいプログラムを考えたいです。すでに「スポ育」がありますが、もう一歩進めて、視覚障がい児を取り巻く環境に対して何かできないかと。
――具体的にはどのような取り組みをイメージしていますか。
視覚障がいの子どもたちは盲学校に通う子も多く、健常の子どもたちと接する機会は非常に少ないと感じています。双方の子どもたちにとって幼少時代に「こういう子もいる」「ああいう子もいるんだ」と混ざり合う経験をすることは、その後の価値観形成や進路選択などにも良い影響を及ぼすでしょう。しかし、学校がそこまで担えないことも経験上分かるので、JBFAで模索したいと思っています。
2022年のKPMGカップでは大会運営の陣頭指揮を執り、様々な業務に携わった。(写真左)
――なるほど、それは今までの高山さんの経験すべてを生かして取り組めそうな課題ですね。仕事上でもっとも大切にしていることはどんなことですか。
自分が感じている社会の課題や、JBFAのビジョン「混ざり合う社会をつくる」ことについて、“考え続けること”が大切だと思っています。
――最後に、JBFAを目指す方へメッセージをお願いします。
私も単純に子どもに関わりたいという理由で入職しましたが、初めからブラサカやサッカーに詳しくなくても大丈夫ですよ。自分の信念とJBFAのビジョンへの共感があれば、仕事を通じて自己実現できると思います。私たちと一緒に働きながらブラサカをより好きになっていきましょう。