サイトへ戻る

VOICE:事業推進部 宮島大輔の場合。

JBFAで働く仲間たちを紹介するこのコーナー。

今回は、大会ボランティアを経て契約職員として入職し、現在は正職員として主に大会運営を担っている宮島大輔さんに話を聞きました。

2020年11月16日

事業推進部 大会運営グループ

宮島 大輔 Daisuke Miyajima

---------------------------------------------

2016年 大会ボランティアを経験

2017年 契約職員として入職

2021年 正職員に

スポーツの観戦環境改善に興味があり

大会のボランティアに応募

――福岡生まれ、東京育ちの29歳。現在、体育学専攻の大学院生でもある宮島さん。人工芝のピッチ上を車椅子で動き回って働く姿が印象的です。いつから車椅子ユーザーになったのですか。 

18〜19歳の頃から車椅子ですが、人工芝って本当に動きにくいんですよ(苦笑)。僕は、幼稚園からずっとサッカー少年でしたが、18歳の時に不慮の事故で負傷。治療とリハビリのために一年半ほど入院し、退院できたのが19歳で、20歳で大学の社会福祉学科に入学しました。

――JBFAに関わることになった経緯は。 

大学時代には友人とサッカー観戦に行くことも多かったのですが、以前のように自分の好きな席に座れず、車椅子席や後ろのほうから見ていて、だんだん楽しめなくなっていました。そうした経験から、スポーツの観戦環境の改善に向けた研究をしたいと思うように。そんななか、JBFAが大会会場で観戦環境のバリアフリー化に取り組んでいることを知ったんです。ちょうど大会ボランティアを募集していたので応募したところ、採用されました。

――実際に現場でボランティアをしてみて、いかがでしたか。 

2016年6月、アクサ ブレイブカップ(日本選手権)に初めて参加し、実況ラジオや触地図などの案内をするリレーションセンターで仕事をしました。とにかく仕事が楽しかったですし、中学生の頃からスポーツの大会運営に携わりたかったので嬉しかったです。大会の準備段階から関われたことも大いに勉強になりました。

今思えば社交辞令だったのかもしれないですが(笑)、職員の方々が「いつでも事務局に遊びに来ていいよ」と言ってくれたので、2日に1回くらいの頻度で事務局に顔を出すように。最初は話をしたりするだけでしたが、だんだん仕事も手伝うようになっていました。

 

 

大会委員長を任されて感じた、

みんなの中にある思い

――その後、ボランティアから契約職員になったのですか。 

はい。2017年夏に大学院の試験に合格し、晴れて翌年の春から大学院生になることが決まったとき、JBFAの方から「大学院が始まるまで働かない?」と誘われ、2017年夏から週3回勤務の契約職員となりました。

――正式に入職してからは、どんな仕事をしたのですか。 

最初の大きな仕事は、2018年2月に開催された「さいたま市ノーマライゼーションカップ」の責任者でした。それまで男子日本代表と強豪国代表との親善試合でしたが、この年から女子日本代表の試合に変更することになっていたんです。前年1200人規模だった集客数を落とすことなく、会場を変更するなど様々なミッションがありました。想定外のアクシデントも多々あり、僕も周りの人たちも大変でしたが、「やるしかない。やってみればなんとかなる」と経験値が増えました。

責任者を務める大会会場では受付から指示を出すことが多い。(写真右)

――大会は無事に終了し、集客は1000人超。メディア露出も増えて女子のブラインドサッカー選手たちにもスポットが当たるようになりました。その後はどのような経緯で今に至るのですか。 

仕事が楽しかったので、大学院が始まっても契約職員を続けることにしました。2018年には「アクサ ブレイブカップ(日本選手権)予選ラウンド」、2019年2月には「さいたま市ノーマライゼーションカップ」の責任者に。同時に、世界各国の女子代表を集めたトレーニングキャンプの責任者も担当しました。

――大会やイベントなど、ゼロから何かを立ち上げていく仕事が多いですね。 

そうですね。今年は、「アクサ×KPMG ブラインドサッカー2020カップ」の責任者になりました。ここ数年、わりと同じメンバーで経験値を共有してきた手応えがあったのですが、コロナ禍でいったんリセットされてしまって。まさにゼロからの再スタート。大会をやるのかやらないのか、感染対策は万全なのか、人員配置はどうするのかなど、社内での議論も本当に労力が要りました。

――責任者として大勢のスタッフをまとめあげていくのは大変ではないですか。 

JBFAには本当にいろいろな人がいて、大会運営をするうえでは広報や営業、審判部等、様々な部署の人たちと連携する必要があります。いい意味でクセの強い人がたくさんいるから意見が異なることもよくあるけれど、結局「仕事がおもしろいな」という気持ちが勝つ。不思議とネガティブにはならないです。僕は、JBFAで働くようになって「人は人、自分は自分」と思えるようになった気がしています。それは、他人に無関心なのではなく、相手との違いを抗うことなく受け入れられるようになったということ。多様な人たちに混じって働くうちに、ちょっと優しくなれたのかもしれないですね(笑)。

――JBFAで働く人たちを貫く、共通の信念のようなものがあるのでしょうか。 

大会運営の過程でいろいろな意見が出てきたとき、違いや多様さはあるけれども、それ以上にみんなの胸の内にJBFAのビジョン・ミッションが存在していることを感じるようになりました。目指すところが同じだから、途中で意見が食い違っても、最後にはまとまれる。「ブラインドサッカーをもっとよくするためにどうすればいいか」と、みんなも僕も常に考えている気がします。最初にJBFAのビジョン・ミッションを知った時は、正直、よく分からなかったんですけどね(苦笑)。今では自分の中でも拠り所になっているのだと思います。

大会の進行管理を行いながら、来賓受付や案内など、ブラサカを楽しみに来てくださるお客様を笑顔で出迎える。(写真中央右)

挑戦を応援してくれる仲間たちが

より長く働ける職場づくりに貢献したい

――JBFAで働いてよかったと思うことは、どんなことですか。

現実的な話ですが、僕の場合、平日の昼間に病院や役所へ行く必要があるのですが、労働時間を自分でコントロールすることができます。自分のライフスタイルに合わせた働き方ができることはありがたいなと思っています。

それから、僕のように大学院へ通うだとか、別のことにチャレンジしていいという土壌があると思います。仕事上でも、自分がやりたいことにはチャレンジできる。決して上司から言われた範囲内で挑むのではなく、自分がやりたいことをやりたいように挑戦させてもらえるんです。

僕自身、JBFAの大会運営の仕事を中心に、パラリンピックの組織委員会の仕事や、偏見を可視化するプログラム「UB-Finder」の調査、コロナ禍に立ち上げた「おたすけ電話相談窓口」、地域リーダープログラムなど、いろいろな仕事に携わっています。性格的に、一つのことだけでは飽きてしまうんですよね(笑)。

笑顔の絶えない同僚たちと、大会会場にて(写真前列中央)。

――たくさんのプロジェクトに関わっていますが、プライベートの時間は確保できていますか。

さすがに大会前だと少なくなりますが、落ち着いているときは友人とサッカー観戦に行ったり、家で読書をしたり、のんびりできています。大学院にもきちんと通えていて、論文を出したら無事修了予定です。

――では、来春から時間が増えそうですね。今後やってみたいことや目標はありますか。

気づけば、僕も後輩ができるような年齢になっていました。今後は、新しく入ってきた若いメンバーも楽しく仕事をし続けたいと思えるJBFAの職場環境づくりに貢献していきたいです。とかくスポーツ業界は、長く続ける仕事ではないというイメージがあるから。ライフイベントのせいで辞めるのではなく、長く続けられる仕事としてどう確立すべきかを考えたいと思っています。

――最後に、JBFAで働いてみたいという方へメッセージを。

JBFAは、自分がやりたいことに挑戦できる職場です。そして、誰かの「チャレンジしたい」という気持ちを尊重して、応援してくれる仲間がいます。あとは、自分がいかにがんばれるか。ぜひ一緒に働きましょう。